【航空宇宙産業について】日本の航空機産業の歴史

 今回は日本の航空機産業の歴史について紹介します。

 

日本の航空機産業は大正時代に始まりました。ですが、産業としての形態を整えるようになったのは昭和5年(1930年)のことです。

昭和5年の生産機数は年間400機弱でしたが、10年後の太平洋戦争突入時には年間約4800機、さらに3年後の昭和19年(1944年)には年間約25000機と急速な発展を遂げました。

この時の日本の航空技術は世界トップ水準にありました。

しかし、その高度な技術力は対戦相手に脅威であり、昭和20年(1945年)太平洋戦争の終戦により航空機の生産・研究・実験等を禁止され、日本の航空機産業は活動できなくなりました。

 

 その後、日本の航空機産業は、7年間にわたる生産・研究・実験の禁止期間を経て、昭和27年(1952年)に再開しました。7年間の禁止期間で、日本の航空機産業は欧米諸国に大いに遅れを取っていました。

ですが、ライセンス生産(企業は別の企業が開発・製造した製品の知的財産権に関する契約を結ぶことで、同じ仕様の製品を生産する)により、失われていた航空機を生産するために必要な技術力を取り戻すことができました。ライセンス生産で得た技術をベースに航空自衛隊機や民間ビジネス機の国内開発を進めています。

 

 また、現在では民間輸送航空機のダウンサイシング化(コスト削減や効率化を目的としサイズを小さくすること)やニーズに応えるために次世代の航空機の開発も進められています。日本の航空機産業の歴史にはアメリカと関わりが深く関わっています。

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航空自衛隊機 F-2

この航空自衛隊機はF -2という戦闘機です。F -2は日米で共同開発されたものであり、アメリカとの関わりの深い戦闘機です。

 

 さて、ここからは余談ですが、航空機産業は新幹線と関わりがあるのを知っていますか。戦前、航空機と鉄道は深い関わりがありませんでした。

ですが、先ほども記載した通り、太平洋戦争の終戦で航空機の生産・研究・実験等を禁止になったことで、優秀な航空機技術者たちが職を失いました。

当時、航空機の技術は最先端を走っており、その技術や理論を取り込み、鉄道技術を進歩させるために、「新幹線の生みの親」とも呼ばれる島秀雄が数百人規模の航空技術者を受け入れました。そうすることで航空機産業と鉄道の技術や知恵、経験を合体させ、新幹線が開発されました。

このように新幹線の歴史を遡ると鉄道と航空機技術者との関係が明らかになってくるのです。

 

(佐々木)

 

〈出典〉

日本の航空機産業史 歴史と記録

http://www.japanaerospace.jp/2012/q-1-3.html 

日本の航空機工業

https://www.sjac.or.jp/common/pdf/toukei/50nennoayumi/4_1_nihonnokoukuki1.pdf 

進化し続ける新幹線。技術者たちの挑戦を追うノンフィクション

 https://biz-journal.jp/2018/04/post_23140.html 

 

〈画像の出典〉

photo AC/航空自衛隊

https://www.photo-ac.com/main/detail/145991?title=F-2&searchId=232510552